我が家は父が亡くなった当初、ビンボどん底だった。

と、私は感じたものだ。

ビンボとはいえ、TVや学習机はあったので、母に言わせれば

まだ昔よりはましな環境だという事だが・・。


丁度、高校受験の時期だが、とても私立に通えるだけの

財政ではなく、公立でもかなり厳しかった。

父は頑固な江戸っ子だったので、「縁起でもない」と、

生命保険にも入っていなかったし、発病から他界までの

数ヶ月は、痛みとの戦いで夜も昼もくれず、母は休職して

父に付き添っていたから、収入残高もぎりぎりだったのだ。


父は次男で長男が本家に住んでいたが、田舎者の母は

祖母と折り合いが悪く、財政的援助はなかったらしい。


父は町工場に勤めるサラリーマンだったが、発病の

数ヶ月前から体の不調でやはり休職しており、これまた

収入がなかった。


葬式が済んだ時、母はこれから私と妹を抱えて、どう生活

していこうか途方にくれたと後に語っていた。

都営団地に入れなかったら、路頭に迷っていたかもしれない、

と今でもたまに笑って話している。

母のバイタリティは、私でも脱帽ものだった。


母の実家は群馬の渋川にあった、小さな八百屋で夏休みは

そこに遊びに行くのが楽しみだった。

入り口には野菜が並び、そこを抜けると障子もない、いきなり

生活の場。

既に使われる事はないが、井戸から水をくみ出すポンプがあり、

珍しくてよく遊んだものだ。


母の時代は子沢山で、母は12人兄弟の3女だった。

祖父と祖母は朝早くから市場に野菜の仕入れがあったので、

炊事洗濯は長女~3女までの交代制。

お弁当は白米にキャベツの千切りのおかずのみで、たまに

ゆで卵をもらえるとご馳走だったという。

いつも背中には弟妹をおぶった状態で、自由に遊ぶ事も

ままならなかったらしい。

思春期前に肋膜炎になり、祖父は滋養をつけろと蒲焼を

よく買ってきてくれていたが、その頃の実家にそのような

贅沢をできる余裕はなかった。

後で聞くと、うなぎと信じて食べていたのは、実は蛇だった、

と聞いて、母は今でもうなぎと蛇は苦手である。


食事は14人分の用意とおさんどん。

気を抜けば、自分が食べるときにはお櫃は空、という事も

多かった、と笑う。

朝は兄弟の分まで大量のキャベツを刻み弁当箱に詰め込む。

時にまだ赤ん坊だった弟妹をおぶって登校したそうだ。

学校が終われば、また子守とおさんどんの支度で、友人と

遊んだ記憶も少なかったという。

家事の手伝いの手際が悪いと食事抜きだったり、ビンタが

飛んできたんだよ、と話す。

たまに親族がそろうと、その頃の話しで盛り上がるが、

不思議と悲壮感は感じられなかった。

その頃はそんな生活が当たり前だったのだ。


そんな話を聞いていて、図書委員だった頃読んだ

山本 茂実
あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史

を思い出した。生きること、食べることに精一杯で、

おしゃれや遊びは自立するまで全くなかったという。

「でもね、うちのじいちゃんはちゃっかりしてたから、

戦後の闇米でいくらか蓄えがあって、おかずこそ

毎日キャベツだったけど、白米だけは食べれたんだよ。」

・・・と、いうことは白米を食べれない家庭もあったわけか。


田舎に行くと、圧倒的な親族の数とそのパワーに圧倒される。

制約も多かった代わりに家族の団結力は今も続いているのだ。


人間の生のパワーってすごいと思った・・。


年頃になって、すぐ母は、看護師になると決めて、単身

上京した。

荷物は布団一色とかご1個に入るだけの衣類だったという。

そこで、病院の院長の家で住み込みの女中をしながら進学し

看護師の資格を取ったという。


マイペースで家ではグータラするのが好きな私は、母には

もどかしく見えたことだろう。


一方父は東京下町の次男として育ち、昔は「赤線」という

色町で育った。吉原より格下の遊郭の事だ。

祖母は髪結い、祖父は髪結いの亭主をしながら、芸者さんに

楽器を教えていたらしい。

比較的体が弱かった長男の叔父に比べ、腕白だった父は

テッキーのおじさんややっちゃんにかわいがられ、喧嘩の

仕方やら教わったという。(教わるなよ・・・。

娘の私がいうのもなんだが、父は男前でいなせだった。

母は・・・・どう見てもおやじっぽかった・・。(ドキドキ・・


父と母との出会いは、父が結核にかかって入院し、なーすな

母とそこで知り合い付き合い始めたという。

(タデ食う虫も好き好きって奴なんだろうか・・。モノクロの

写真を見ても、どう見てももてそうな父と母のツーショットは

娘の私でさえ違和感が・・・・バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!)


娘の私でさえそうだったのだから、祖母も、父のファン?

だった芸者さんたちも、母との結婚は面白くなかったらしい。

かなり反対されたそうだ。

実家には当時まだ珍しいTVがあったが、母は見せてもらえず、

よく父と2人で街灯テレビ(ってのがあったらしい!)を見て、

帰りに屋台のラーメンを食べるのが、ささやかなデートだった

という。(うわ~神田川の歌みたいな話しだ><)


そんな二人の生活はやはり苦しく、父は町工場、母は看護師を

続けて、2人流産した後 私が生まれた。

子供の頃は、すぐ扁桃腺を腫らして熱をだす、

体の弱い少女(そこ、笑わないように!!)

だったので、その頃から本を読んだり絵を書く事が好きだった。

(赤ん坊の頃は夜泣きしたという弱みはいまだ伝説だ;;)

近所は男の子ばかりなので、遊びはもっぱら男の子向け。


悪さをすれば、家から文字通りほおり出された。

その頃から霊感がなかったせいか、暗闇には恐怖もなく、

ほおり出されれば外を気ままにうろついて、戻ると私がいないと

大騒ぎになっており、鉄拳を食らった記憶は未だにある。(汗)


田舎に遊びに行った時も、いきなり酔っ払ったじいちゃんに

理由は忘れたがはたかれて、「東京に帰る!」と飛び出した。

勿論子供がひとりで電車に乗れるはずはない。

線路を歩いていれば家に着くだろうと考えてたお馬鹿な子だった。

結局ほとんど進まないうちに発見されてまた怒られた。


ば~ちゃんは、「この子位強情で鉄砲玉な子は珍しい」と、

母に言いつけたそうだ。

見知らぬ土地を勝手に家出する小学生の女の子は、

田舎では珍しかったのだろう。

その後は田舎では体罰は与えられなかった。(苦笑)


親の苦労子知らず。どこまでもマイペースな奴だったらしい。

この年になってもその家出事件はまだ語り草にされている。。

(そろそろ時効にしてよ><)


父はそこそこ苦労知らずで育ったので、あまり生活費は

考えず、下戸なのによく自宅に友人を連れてきては

気前よく振舞っていたし、毎週釣りに出かけていた。

実はその影で、母は自分の食事や服を切り詰めて、

父の交友に協力していたらしい。

さすがに父も浮気はしなかったが、我侭な男性だったのは

確かなようだ。(と、今では思う。)


本家では父の後長男が見合い結婚をしお嫁さんが来たが、

気の強い人だったらしく、母には居毛高なば~ちゃんが、

気を使う人だった。

3男のお嫁さんは奔放な人で、男の子二人を産むと、

長男はば~ちゃんに預けて次男を連れてさっさと別居した。

(これは当時では珍しい大胆な女性だったらしい)


この従兄弟のに~ちゃんと私は兄弟のように育てられた。

(と、自分では思っていたが、ば~ちゃんには男孫のほうが

可愛かったらしい。>後日母の話し)


まだまだ、ば~ちゃん世代では、女性蔑視がまだ当然

だったのだろう。


その後、7つ離れた妹が生まれ我が家は数年間4人家族を

満喫した後、3人家族に減った。


働き出してから、こういう会話を聞くようになったが、

両親も祖父母も、それぞれ異なった環境や価値観があって、

なかなか相容れない事もあったと知った。


ほとんど気がつかないで育ったのは、両親が気遣って

くれたのか、よほど鈍い子供だったのだろう。


人それぞれに歴史あり、である。

みんな苦労してたんだね・・・。